文命堤

氾濫と治水双方に深く関わる火山活動

「暴れ川」酒匂川氾濫との戦い

酒匂川はかつて「暴れ川」と呼ばれるほど氾濫を繰り返しては足柄平野に甚大な被害をもたらしてきました。江戸時代初期には小田原藩による治水事業が行われ、岩流瀬 と大口に土手が築かれました。この工事により酒匂川の流れを「Z」型に変え、水の勢いを弱めて氾濫を抑えようとしたのです。しかしその後も酒匂川は氾濫を繰り返しました。特に1707年の富士火山の宝永噴火では、酒匂川に流入した大量の火山灰が河床に堆積したため水位が上昇し、その後数年間にわたり足柄平野に大洪水による被害をもたらしました。これらの大災害から復興するため、この地域は幕府の直轄地となり、第8代将軍徳川吉宗による「享保の改革」によって大規模な治水事業が進められることになります。

文明堤の完成

吉宗は大岡越前守忠相に酒匂川流域の復興を命じます。その大岡忠相に治水工事を任されたのが田中丘隅(休愚)です。丘隅は流失した岩流瀬と大口の堤防を再建すると、そこに中国夏王朝の始祖で治水の神とされる禹王を祀った神社を建てました。禹王の別名が「文命」であるため、堤防は文命堤と呼ばれるようになりました。その後も酒匂川は氾濫を繰り返しましたが、治水事業を続けた先人たちにより、今の緑豊かな足柄平野となったのです。

文明堤と箱根火山

こうした先人たちの知恵と努力に加え、箱根火山も酒匂川の治水には重要な役割を果たしています。流れを「Z」型に変えて弱めるときに使われた千貫岩周辺には、6万6千年前の箱根火山の大規模噴火による火砕流堆積物が見られ、新大口橋の上からでも観察できます。 この火砕流堆積物は千貫岩からさらに上流の内山地区にかけての酒匂川右岸の崖で観察でき、厚いところでは メートル以上にも及びます。この大規模噴火による火砕流の勢いは凄まじく、相模湾を超えて城个島まで達したことがわかっています。文命堤周辺は箱根火山の噴火による火砕流堆積物が酒匂川に浸食されることにより生まれた天然の崖と、その崖を巧みに利用して川の勢いを弱めて氾濫を抑えようとした、先人たちの災害との戦いの歴史を学ぶことができるジオサイトなのです。

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