足柄峠は箱根外輪山である金時山から矢倉岳などがある足柄山地に連なる尾根までの、最も低いところを通る峠です。地質的には約 万年前の火山活動により噴き出した狩川溶岩の上を、約40万年前に噴出した金時山溶岩が覆っています。興味深いのは、足柄峠の北側の標高が高いところで、より下位にある狩川溶岩が露出していることです。
足柄山地は約200万年前から 70万年前にかけて形成れた足柄層群が、プレート運動により隆起して生まれました。その後の箱根火山の活動により溶岩が足柄山地を覆ったのですが、その時点ではまだ低かった足柄山地が、その後急激に隆起したため、現在では足柄峠よりも高い位置に溶岩が残っているのです。
東の語源となった場所
古事記では倭建命が東征の帰りに足柄峠を通ったとの記述があります。そのときに戦ったとされる山の神が足柄明神です。足柄明神はその後、平安末期に矢倉岳の山頂に移され矢倉明神となり、室町初期には苅野に移され昭和の時代に足柄神社となりました。足柄峠には足柄明神の小さな祠が残っていて、近年地域の人々により鳥居などが整備され、見晴らしも良くなっています。晴れていれば、ここから箱根の大涌谷も眺めることができます。また倭建命がこの地で亡き妻を想い発した「吾妻はや」という言葉が「東」の語源と言われ ています。ここより東が「坂東」と言われ、古くから日本の東西を分ける場所とされてきました。
万葉集に詠まれた足柄
この峠を通る足柄道は、古くから官道として利用され、東国から九州の警備に派遣される防人が、この地を通るときに振り返り故郷を懐かしんだ場所でもあります。彼ら防人や名もなき東人が詠んだ歌は万葉集にも多く納められ、その中でも「足柄」という地名が入った歌は19首あります。これらの歌碑かが並ぶ足柄万葉公園からは足柄平野や相模湾を一望でき、地形観察にも適した場所です。
交通の重要な拠点として
平安初期の富士山の延暦噴火により足柄峠が通行不能となると、迂回路として箱根を通る街道が整備されました。江戸時代になり東海道が整備された後も、足柄道は矢倉沢往還として利用され、富士山や大山、最乗寺へ参詣道として賑わいました。また戦国時代には北条氏により足柄城が築かれ、豊臣軍に対する防衛の拠点にもなりました。このように歴史上、交通の要衝であり続けた足柄峠は、箱根ジオパークの「東と西をつなぐ歴史のみち」というテーマを補完する、重要なジオサイト候補地です。富士山の眺めやハイキングなどで訪れる人は多いと思いますが、この機会にその歴史や背景についても学んでみてはいかがでしょうか。