文命堤特集

酒匂川はかつて暴れ川と呼ばれ、大口付近でしばしば氾濫し流路を変えていました。しかし文禄から慶長年間に大口堤と岩流瀬堤が築かれ、ほぼ現在の流路に定まり、足柄平野は水田が発達したと言われています。宝永四(1707)年に富士山が噴火して大量の火山灰(黒色で多孔質な降砂)が降り積もり、酒匂川の川床は浅くなりました。そのため、宝永五(1708)年と正徳元(1711)年に、大口堤と岩流瀬堤は決壊し、下流の村々は大きな被害を受け、その後の復興は困難を極めました。

そこで、江戸幕府の八代将軍徳川吉宗は、享保八(1723)年に、南町奉行大岡越前守に命じて治水、利水事業に詳しい、川崎宿の名主であった田中丘隅(休愚)を遣わして、享保十一(1726)年に大口、岩流瀬堤の復旧工事を完成させました。丘隅は大口、岩流瀬堤の上に、治水、護岸を祈願し、中国の治水の神とも言われる禹(称号は文命)を祀った文命宮を作り、大口堤を文命東堤、岩流瀬堤を文命西堤として、両堤を文命堤と名付けました。享保十九(1734)年に文命堤は再び決壊し、丘隅の娘婿で代官の蓑笠之助が復旧しましたが、本格的な復旧ができたのは明治時代に入ってからでした。

箱根火山も酒匂川の治水には重要な役割を果たしています。流れを「Z」型に変えて弱めるときに使われた千貫岩周辺には、6万6千年前の箱根火山の大規模噴火による火砕流堆積物が見られ、新大口橋の上からでも観察できます。 この火砕流堆積物は千貫岩からさらに上流の内山地区にかけての酒匂川右岸の崖で観察でき、厚いところでは メートル以上にも及びます。この大規模噴火による火砕流の勢いは凄まじく、相模湾を超えて城个島まで達したことがわかっています。文命堤周辺は箱根火山の噴火による火砕流堆積物が酒匂川に浸食されることにより生まれた天然の崖と、その崖を巧みに利用して川の勢いを弱めて氾濫を抑えようとした、先人たちの災害との戦いの歴史を学ぶことができる文化遺産と共にジオサイトなのです。